「江戸の花見」

    
 
桜は江戸っ子に最も愛された花で、江戸市中には数多くの桜の名所が生まれました。

江戸第一の桜の名所は上野寛永寺で、三代将軍・家光公が吉野から桜を移植させたことにはじまるとされています。当初は将軍の菩提寺として人々の立ち入りは許されませんでしたが、元禄11年からは花見時に限って明け六つ(日の出)から暮れ六つ(日の入)まで一般に開放されるようになりました。

やがて八代将軍・吉宗公の治世になると、歌舞音曲が禁止されていた寛永寺にかわる花見場所として、江戸湾を一望できる眺めの品川・御殿山、堤防に桜並木が続く隅田川堤、そして吉宗公の故郷の紀州ゆかりの王子・飛鳥山に、江戸城で育てた桜が植えられました。これら江戸郊外の花見場所は、日帰りの花見客が大勢訪れ、屋台や茶屋で飲み食いしたり歌や浄瑠璃を楽しむなどして大いに賑わいました。

 

「桜」

    
 
現在では桜の花見といえば四月ですが、旧暦の江戸時代では三月で、弥生のことを桜月・花見月ともいいました。
花の種類も、ヒガンザクラにはじまり、ソメイヨシノやヤマザクラなどが楽しまれていたようです。

江戸の各所に桜が植えられ、花見の名所が多く生まれました。
また著名な桜の銘木なども誕生し、上野山の秋色桜や見合桜、渋谷の金王桜、谷中養福寺の糸桜などが当時の人々に愛されていたようです。

『増補江戸年中行事』によれば、桜の見ごろは春より数えて、隅田川堤で65日目ごろ、上野山・飛鳥山・御殿山で70日目ごろであったといいます。



 

「江戸椿」

    
 
 古事記や日本書紀、万葉集にも登場し、古来より日本人に愛されてきた椿。

 江戸時代、徳川幕府が開かれると、江戸に多くの神社、寺院、武家屋敷が建設されていく中で、多くの庭園が営まれ、ツバキも植栽されていきました。
 なかでも二代将軍徳川秀忠は、全国の藩から多くの椿を含む名花を献上させ、そこからさまざまな種が交配され広がりました。

 現在、それらの古典品種は「江戸椿」と呼ばれています。

 

「黒豆」

    
 
黒豆は黒大豆といい、日本では古くは平安時代ごろには栽培されていました。

お節料理に黒豆を食べはじめたのは室町時代で、そのころは「座禅豆」と呼ばれていました。
江戸中期の書物『和漢三才図会』には、「黒豆ハ薬ニ煎ルベシ。或ハ炒食シ、或ハ醤油ヲ和シテ煮ル。座禅豆と名ヅク」とあります。
江戸時代後期には黒豆を醤油や砂糖で煮た煮豆をお節料理として食べることが一般に広がったようです。

戦国時代には黒豆を主原料とした非常食が用いられており、江戸時代ごろにはその栄養や薬効が広く知られていたことがうかがえます。

 

「栗」

    
 
砂糖が容易に手に入らない時代より菓子として珍重されてきた栗は、焼き栗やゆで栗だけでなく、非常食として粉や餅など様々な食べ方や保存がされました。また食用だけでなく神饌(神様のお供え)としても利用されました。

戦国時代になると、出陣や勝利の祝いに「勝栗」が登場します。これは栗の実を殻ごと干し臼で搗いて、殻と渋皮を取り除いた食べ物です。
熱湯に入れて軟らかくもどしたり、掌中で握り暖めたりして食べたようです。「臼で搗く」転じて「搗ち」が「勝」に通じ、武将には縁起の良いものとされ用いられるようになり、民間でも正月に食べられました。

一方で、宮中の行事「歯固め」。長寿を祈願する行事で「花びら餅」を食べることもこれに由来します。江戸時代に広く民間に広まり、歯固めの行事に、餅・豆・干し柿と勝栗が使われていました。                 
 

「柿の木坂」

    
 
目黒区にある「柿の木坂」は、江戸時代その一帯を衾村(ふすまむら)と呼ばれ多くの田畑が拓かれていました。

坂の名前の由来は、このあたりに大きな柿の木があったからと言われており、古くからその名前で呼ばれていたようです。

また、現在と違い江戸時代当時は急な坂道であったため、農民たちが野菜を荷車に積んで通るとき、近所の子供たちに後押しを手伝わせていました。

その子供たちが駄賃のほかに、荷車から柿を抜き取っていたことから「柿抜き坂」と呼ばれ、それが訛って「柿の木坂」となったという説もあります。
 

「縁日(えんにち)」と「金魚すくい」

    
 
縁日とは、神仏の降誕・示現・誓願などの縁(ゆかり)のある日を選んで、祭祀や供養が行われる日のことをいいます。

平安時代ごろには縁日の思想がみられ、『今昔物語集』などにも記されています。これは社寺がまつる神仏が特定の日にあらわれて、この日にお参りした人を救ってくれるという御利益信仰によっています。江戸時代ごろには、「朝に観音、夕に薬師」などといわれるほど様々な縁日がもうけられ、人気の高い神仏の縁日には多くの庶民が競ってお参りをしました。

縁日には市が立ち、見せ物小屋が並び、夜店も出て、人々に親しまれました。その中には「金魚すくい」などの露店が多く出ており、浮世絵にはそれを楽しむ子どもたちの様子が描かれています。金魚を飼育するようになったのは江戸中期からで、夏の盛りの江戸の町には、水売りや金魚売りが涼しげに声を張り上げ、季節の風物詩となっていました。
 

「水ようかん」

    
 
天正17年、和歌山の駿河屋岡本善右衛門によって、寒天に餡を加え、さお状に固めた日本独自のお菓子「煉羊羹(ねりようかん)」が作られました。江戸時代は煉羊羹が大いに好まれ、さまざまなお店で羊羹が売られていたようです。


水ようかんは、文久年間に生まれたといわれています。
他の羊羹と同じように、餡を寒天で固めるのが典型的な製法で、水分を多くし、柔らかく作ります。


江戸時代の随筆『橘窓自語』に「やはらかなるやうかんを、水やうかんといひしが」とあるように、水っぽく、やわらかい羊羹の意味合いが強く、今のように冷やして食べる涼しげな印象はなかったようです。


 

「桃」

    
 
桃は、古くから「水菓子」と呼ばれて珍重されてきました。
 
とても傷みやすい果物であるため、栽培中は袋をかけて保護しなければならないほど手間のかかる果物ですが、果肉に水分を多く含んで柔らかく、糖分をたっぷりと含んだ甘い風味が好まれています。

日本では、縄文時代から好んで食べられていたようで、遺跡からも桃の種が出土しています。また食用のほか、祭祀用にも使われ、邪を払う果実として重んじられました。また江戸時代には、桃が全国に広まりました。

現在、食べられている甘味の強い水蜜桃などは、明治時代に輸入されたものです。日本で食用に栽培されている品種は、この水蜜桃を品種改良したものがほとんどです。 
 
 

「菜の花」

    
 
黄色い絨毯のように一面に咲く菜の花は、春を感じさせる風物詩のひとつです。

菜の花は古くは平安時代から野菜として親しまれ、江戸時代には「胡菜(こさい)」「菜薹(さいたい)」と呼ばれ、主に油を採るために栽培されていました。種から採り出した植物油は「菜種油」として、日本で最も古い油脂として食用・灯火用として活用されました。

現在では、都内の「浜離宮恩賜庭園」などで大規模な菜の花畑を楽しむことができます。浜離宮はかつて浜御殿と呼ばれており、将軍家の別邸として使われていました。戦前は宮内省の管轄で迎賓館として使われ、戦後には都民に開放されました。整備された庭園が有名で、四季折々の風情で現在も多くの人々の目を楽しませています。               
 
 

「端午の節句とこいのぼり」

    
 
端午の節句は、5月5日の子供の日にあたります。もともとは男の子の成長を祝う日でしたが、今は子供のための祝日となっています。
この日、男の子のいる家庭では、勇壮な武者や英雄を模した五月人形を飾ったり、空高く雄大なこいのぼりを立てたりします。
鯉は滝でも泳いで登ってしまう力があり、また滝を登ることで龍にもなるということで、昔から立身出世のシンボルとされてきたことがあります。

「江戸っ子は皐月の鯉の吹流し」と言われるように、こいのぼりは「幟(のぼり)」とは名づけられているものの、形状は魚を模した吹流し形です。
こいのぼりは門松や雛人形と同じく、江戸時代中期の裕福な庶民の家庭で始まった習慣であり、端午の節句には厄払いに菖蒲を用いることから、別名「菖蒲の節句」と呼ばれ、武家では菖蒲と「尚武」と結びつけて男児の立身出世・武運長久を祈る年中行事となりました。

この日武士の家庭では、虫干しをかねて先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に、玄関には旗指物(のぼり)を飾り、家長が子供達に訓示を話したそうです。

 

「鯛」

    
 
鯛はめでたいものとして、古くから貴ばれてきました。

江戸時代に入ると、鯛は「魚の王」としてますます珍重され、慶祝事には、頭から尾まで完全にそろった尾頭付きが「終わりを全うし、人生を全うしうる」縁起の良いものとして饗されるようになりました。

三大将軍・家光は、上洛の折に立ち寄った駿州(現・静岡県)の鯛を大層気に入り、日本橋の魚商人に命じて大規模な活鯛の流通経路を構築させました。

その結果、江戸には新鮮な鯛が流通し、江戸の人々もおいしい鯛を楽しむことができるようになったのでした。


 

「日本橋」

    
 
「お江戸日本橋七ツ立ち」
これは東海道五十三次をうたった明治初期の流行歌の一節です。日本橋は朝早くから旅立つ人、江戸に到着する人々で賑わいました。
その様子は浅井了意の『江戸名所記』に「橋の上は貴賎上下にのぼる人くだる人ゆく人帰る人馬のる者人の行通うこと蟻の熊野まいりのごとし」と記されています。

日本橋は江戸を通る五街道すべての起点であり、最も賑わった町人の町です。商店街や問屋街、魚河岸などがたち並び、全国から船で運ばれてきたさまざまな商品が陸揚げされ、そこから市中へと流通していきました。また幕府公金の為替・出納をおこなう金座の発展とともに、経済の中心としても栄えました。

日本橋は、江戸にとって最も重要な水路と陸路が交差する要所として活気にあふれ、江戸の文化はこの橋を渡って全国へと発信されたのでした。
 

「紅葉狩り」

    
 
初冬(11月初旬)になり、江戸市中にある寺社の楓がいっせいに紅葉しはじめると、「紅葉狩り」と称して多くの人が見物に訪れるようになります。


江戸にも紅葉の名所が数多くありました。『江戸名所花暦』には、下総国葛飾郡の眞間山弘法寺、向島の秋葉大権現、滝の川、品川鮫洲の補陀洛山海晏寺、万松山東海寺などをあげられています。


『江戸名所図会』には、江戸随一の紅葉の名所として「海晏寺紅葉見の図」があり、紅葉を眺めながら茶店でお茶を楽しむ人々や、短冊を持つ風流人などが描かれています。